第一章 モア・ザン・フィフティミリオンセンチメートル
三コール目で通話口に出たクラスメイトに、轟はダッフルバッグに課題や教科書を詰めこみながら朝の挨拶を返した。
『少し寝坊か?轟くん。そっちは準備できたかい?駅前南口改札で待ってるぞ』
雄英高校最寄り駅で待ち合わせる約束をしていた飯田のほうは、実家から五分前に駅に着いていたようだ。
轟も急ぎバッグのショルダーを肩に乗せる。
週末金曜行きの一泊分の荷物は、ヒーロースーツもあるのでかさばり重い。
飯田のスーツではなおさらで、手荷物を減らすのに腐心していた。
「わりぃ…もう学校出るところだ。…ん、わかった。じゃあ、駅で」
通話を切って他に荷物の取りこぼしがないか脳裏でリストアップし、早朝乾燥機にかけた体操着を忘れていたことに気がつく。
「――轟さんも、今回の出張で最後なのですよね?」
このまま出発しようとランドリールームに向かおうとしたところで、左隣の八百万に呼び止められる。
二年になっても席順は変わらないままだ。
「ああ…今日で神野と群訝に行くのは最後だ」
「山間ですと、ここから遠いですものね……」
「そうだな…。片道でも五時間くらいだ。俺と飯田は明日でやっと終わるな」
大戦後のこの三カ月半、ヒーロー科一年だった生徒は週末金、土曜日に限り、個性訓練も兼ねて担当戦闘地域での被害規模視察と被災支援に入っていた。
二年A組教室内には、今日も通常授業に戻っているメンバーはまだ半数もいない。
社会インフラ再建と倒壊建物の解体、仮設住宅建設が進んだことで、まもなく雄英生徒による週末の遠方出張が終わるのだ。
「お二人とも最後の作業ですから、張りきって行ってきてくださいね」
「ああ。行ってくる」
教室を出る間際、始業を待ち談話をしている一角からわっと歓声が上がった。
「砂藤、あの一年女子と付き合う!?」
芦戸と瀬呂、切島らが照れて笑っている砂藤の席を囲んでいる。
「おいよせよでかい声で話すの。恥ずかしいじゃねえかよお~」
芦戸がよく口にする恋バナというやつだろうな、と轟は聞きしなに教室をあとにした。
「瀬呂クンに続いて春が来たねえ、砂藤くん?」
「へー…!!やったじゃねえか砂藤!」
「炊き出しで縁があったらしいよ~。お料理上手なんだって!」
教室を出た廊下に漏れ聞こえる明るい声が、耳に反響する。
大戦前まではどうでもいい他人事のような話題だった。
クラスメイトのあらましを少しは受け入れたいような、応援したいような――そんな煩雑な気持ちを抱きながら、ランドリールームに急いだ。
終末明けの世界には――少なくともこの日本には、急速な復興の嵐に呑まれた歓喜が満ち溢れてきている。
先輩たちの遅い卒業式を終えたあとの六月半ばにさしかかる頃であるのに、轟は何故か春を意識した。
◇◆◇
「轟くん!急げ…!朝食の駅弁は適当に買っておいたからな!」
最寄り駅で飯田と落ち合い、在来線で新横浜駅に向かう際に一時点検で止まってしまった影響で、新幹線の乗車時間十分前にホームに着いた。
二人で指定席の車両までのホームを全速で駆ける。
「わりぃ…っ、ありがとな!」
機転を利かせ飯田が途中のキオスクに駆け込み、秒速でICカードで会計を済ませ出てきた頃には、既に乗車五分前になっていた。
ようやく指定席に着いた頃に、同時に大阪方面行きの新幹線が発車し始め、二人で安堵の息を大仰に吐きだし笑った。
「何とか間に合ったな轟くん…まさか電車が止まるとは思ってもみなかったよ」
「ああ……。疲れた…」
朝から思わぬエネルギーを消費し荒い息をついていたところに、飯田がお茶のペットボトルを差し出す。
「適当に引っ掴んだものだが……日本茶なら何でもかまわなかったかい?」
「よく間に合ったよな飯田…。何でもいいよ。助かった」
もしかしたら少し個性を使ったのかもしれない。
キャップを外し国産緑茶を乾いた喉に流し込むと、生きた気分を取り戻せた。
轟側がもう少し早く起床していればよかったのだが、平日は授業と合わせ近隣の復興作業もあるので、疲れが蓄積しているのは自覚していた。
向かいで同じようにオレンジジュースを呷っている飯田の喉が、ごくりと連続的に動いているのを眺める。
二年になって急に、また一回りは身体が分厚くなったような気がする。
「……明日で終わりだな。群訝行くの」
「ん?ああ…。毎週末三カ月は通ったからな…。だが、群訝と神野の人が普通の生活に戻れてきているのは、喜ばしいな」
「そうだな…。すぐにインフラに反映されんのも、プロの個性のおかげだな」
普通の生活――――。
今年度の卒業式を迎え、朝の教室で耳にした光景を思い出す。
雄英の方針で、戦後の被害想定を実際に目で見る体験を兼ねた遠方出張だったが、実質ヒーローやレスキューの人手が足りず、実員投入された形になったのだ。
文明大破壊のあと、三カ月のリアルな再生の軌跡は、高二にして身に染みて大きすぎる経験となった。
大きな何かが壊れたあとの痛みややりきった達成感というのは、朝のあの何でもない一瞬に、安息と共にぼんやりとした欠落を覚える。
だが……それでも―――。
同じ戦地に数か月いた飯田と視線がぶつかり、思わずどこかほっとして顔を見合わせ微笑み合う。
「…さて、しっかり走ってお腹がすいたな!さっそく弁当を食べよう。ぱっと見てそばっぽいのはなかったから、一番大きい幕の内にしたぞ」
ビニール袋から取り出した駅弁と箸をを一つ差し出し、飯田はバタフライテーブルを押しだしさっそく開封を始めた。
冷めてはいても、まだ何も入れていない腹を鳴らすには十分な見栄えと量だ。
飯田の足の速さと細かな気遣いには、いつも一、二歩先も動向を掬われているなと思う。
「文句はねぇよ。またホテルで美味いもん最後に食えそうだし。腹減ったな」
代金はあとから渡そうと決め、同じように包装紙を剥いで弁当を開く。
いただきます、と当たり前のように市場に供給されるようになった食事に手を合わせ、総菜の筑前煮から箸をつけた。
◇◆◇
昼過ぎに新幹線から在来線、その後駅前の個人タクシーに乗り換え、関西の山麓駅に到着した。
群訝のふもとは深い山間で、近隣道路はまだ再建中で大型バスは通れない。
三カ月同じルートを二人で辿っていたので、すっかり地の利を覚えてしまった。
群訝山荘付近の国定公園内にある山荘ホテルが仮設本部となっていて、復興支援に来たプロヒーローの宿泊や地元住民の避難先として使われている。
轟と飯田は宿営地のホテルに荷物を預け、いつもどおりヒーロースーツに着替えてから、夕方まで山林の復興作業に徹した。
轟と共に荼毘と対峙したエンデヴァー事務所のバーニン、キドウ、オニマーたちも、入院中のエンデヴァーの代理で雄英の二人の引率として入る以外は、市街地の復興に派遣されている。本来なら群訝で戦ったのは耳郎と常闇も派遣組に値するが、轟一家にまつわる被害につき、始末はエンデヴァー事務所が持ちたいという意向に沿うことになった。飯田は轟を群訝まで届けたこともあり無関係ではないからと、自ら申し出てくれたのだ。
最後ということでシンプルで軽い作業を当てられた。地元農園、役所の環境課人員と一緒にひたすら焼け痕を開墾した土に、地産のミズナラやシラキ苗の植樹をしていった。
あたりが暗くなり夜七時を回る頃に作業は切り上げ、二人とバーニンたちもホテルに戻り、地元素材の懐石をいただいた。
暑くなってきた初夏の野外で苗運びをし、土いじりをしていたので、薄汚れたまま掻きこむには贅沢な食事だったが、轟はその様を女将に喜ばれてしまった。
「ショートくん、おかわりあるよ。じゃんじゃん食べな!」
先に浴場を借り浴衣姿でさっぱりとしたらしいバーニンは向かいの座席でにやにやと笑い、轟をからかってくる。
キドウとオニマーはまた市街地作業後、そのまま市内のシティホテルに泊まっているようだ。
「……食べてますよ」
苦々しく返しながら山菜の天ぷらを岩塩でいただく。非日常的な和食も今日で終わりだと思うと少し惜しいなと思う。
何か急におっきくなったねえ、と少し前にバーニンには言われたばかりで、エンデヴァーの血かなという言に正直に顔に出してしまったのがつぼだったようだ。
隣で同じように大口に熊野ポークの鉄板焼きを貪っていた飯田も、轟のほうを見ている目が微笑んでいる。
「面白がってんだろ、飯田」
「っん⁈いやっ、何だか轟くんがいつも以上にがっついているからかな。やっぱり最後だから気が抜けてしまうさ」
かちゃかちゃと慌てふためく箸先で鍋から残りのくず野菜や肉を小皿に盛り、飯田は器用に眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
もちろん飯田がそんな意地の悪い気質ではないのはわかっていたが、子供のようだとからかわれているような気がして反発してしまった。
「そうか。でも飯田の言うとおり、なんか朝ここに来る前から気は抜けてる」
やる気がないというわけではなく、とにかく安堵に近いものだろう。
がっついていたのが嘘のように、そう口にしてしまうとどっと疲れが身体に蔓延し、緩慢な動作になっていくようだ。
飯田も同調したように肩を落とし、小鉢の自家製豆腐をゆっくり味わいながら頷いた。
「まあ…毎週だったから疲れは溜まっているよなさすがに。俺も安心したらごはんが美味しくて」
「俺もだ。まだ全然食えそうだしな…」
頷き返して箸をまた進め、二人で週末行きの長い旅路を締めくくるとさらに身体が重くなった気がしてくる。
空腹もまだ満たしたいが、今すぐにホテルの清潔な寝具で眠り込みたいと思った。
思い返すまでもなく、新人生以外の雄英生徒全体が自分のことは後回しだったからだ。
「インゲニウムくんもショートくんもがっついてんのは変わんないよー?あとはあたしらプロに任せな。授業も始まってんでしょ?」
バーニンは二人の会話をまったり冷やの日本酒を舐めながら眺めていた。濡れ髪が下がっているとやはりヒーローでもちゃんと女なんだなと、轟はぼんやり相手が普通の大人でもあるのだと意識する。
一年に在学中、エンデヴァー事務所インターン中も大戦中でも、栄えある身内事務所お抱えのプロヒーローとしか見ていなかった。
「あっ、はい!出張が終わった生徒から金曜は授業に戻り、平日はまだ午前中近隣の復興支援をしていますよ」
飯田は緩い姿のバーニンに対しても、飽くまで先輩プロヒーロー相手のスタンスを崩さず特段気にもしていないようだった。
真面目に受け答えをしているのを聞きながら、次の週末からは寮に一人残ることになることを考えた。
家族はまだ入院と付き添い中で、実家にも建築中の新しい家にも今は誰もいない。
大戦後A組のメンバーは怪我の具合如何に関わらず、実家に戻り通学しているのだ。
「そろそろ君らも貴重な学生生活に戻らないとねえ。卒業したら爺になるまで永久に他人優先になる。あんなことのあとだから数年は大きいことは起きないと思うし、今の内に少しでも楽しんでおいたほういいよ。ショートくんは特に」
「……。はい」
幼少時からプロヒーローの周囲の大人からよくかけられていたおざなりな台詞だが、壮大な人災を当事者側で被災地での糾弾をいくつも実体験したあとだ。
それを改めて言われてしまえば、加害者家族の立場に立つと糾弾の言いなりになり屈したくはないが、クラスメイトや相澤、オールマイトが許しても、市井にはしばらくすべての行動、轟の血を持つこの顔が許されない。
悲観は、あまりしていない。
血縁の兄として、赤の他人よりもぎこちない燈矢との話が叶い、好きなものを知り、それだけでもう自分の中ではその確執をすべて乗り越えられたからだ。
血はいつでも裏切るし、血は裏切らないのだ。
本当の兄弟なんだと思った。
家族がたとえ再起せず壊れたままであっても、自分にはもうA組という他人がいる。
母親を安心させるために。もうヒーローとしては二度と動けない父親のために。俺がみんなを安心をさせるために―――。
俺から二度と引き剝がせないぶれない鎮守のように、胸に抱いている。
「………轟くん?」
箸を止めた轟をいぶかしんだ飯田が、茶碗を置きこちらを見ていた。
「あ………」
「…大丈夫かい?今日は暑かったもんな…」
「いや……。ぼーっとしてた。わりぃ」
すかさず飯田へ返し、ぬるくなったほうじ茶を喉に流し込む。
まだ小鉢に残った菜物や豆腐、後入れのそばもあるのでもう少し白米を持ってこようかと思ったところで、飯田の厚い手の平が左肩に触れた。
「…!」
「轟くん。…楽しむというあからさまなことは外に出せなくても、俺たちA組がいる。見てないところで、みんなで上手くガス抜きをしよう」
ぽん、と肩に触れていたのは一瞬だったが、降ろされたその手が急須のお茶をゆっくりと持ちあげ、空になった湯呑みに熱い琥珀が注がれる。
被災地での支援中場所を問わず、直接口に出されることはなくても、被害に遭い家を失った人々の視線を強く感じていた。
お前とエンデヴァーがいなければ、荼毘は壊れなかったんじゃないか―――。
もう表舞台には立てない燈矢を市井は追求できない。
いつ直球で罪を問われても済むように、後見人になってくれているホークスにもアドバイスを受けていて、応えをいつも用意していた。
それでも、自分の中ではあつらえられた応えはしっくり来なくて、悪意を感じた時は立ち去る際に黙して会釈を返した。
やるべきことのみに手足を動かし、早く普通の日常を彼らに返すのが正道だと思っていたし、それが正しかったのだと今は思っている。
轟を睨んでいた顔ぶれが、直近では雄英の支援活動に参画してくれていたのだ。
「ああ……。俺もそうしたい」
後押しされ続けた、なりたい自分でい続けたい。
注がれたばかりの湯呑みに口をつけ、エアコンの利いた冷たい部屋で含むお茶があたたかかった。
「ごはんのおかわりはいるかい?俺のを取りにいくついでだ」
飯田はよし、と強く頷き返した反動のまま立ち上がり、空の茶碗片手に手を差し伸べた。
A組の中でも飯田は特に、保須や神野の最初の時から――いつの頃だったかももうわからないが、ずっと俺に気を遣い続けている―――。
じわりと滲みるようにそう実感してきたのはつい最近のことだ。
椅子を引いて、空になりかけの茶碗を手に轟もあとに続く。
「いる。俺も行く」
部屋は毎週末いつもどおり飯田と同室で、食後にすすけたヒーロースーツで戻ると、既に布団が二つ並べて敷かれていた。
すぐにでもダイブしたい気持ちを抑え、浴場を借りて部屋に戻ったあとは泥のように眠り、夢も見なかった。
翌日はここ三カ月のルーティンで早朝から神野区まで移動し、また昼から夕方まで復興支援だ。
朝が早く、朝食も取らずに神野へ戻らなければならないので、風呂に入ったあとはいつも二人で速攻眠った。
ふと空になった頭に脳裏によぎったことがあったが、今考えこんでしまえば多分入れ込みすぎて朝まで眠れなくなる。
隣の布団には飯田も眠っている。
遠方支援は明日の神野区で終わるのに、ずっと轟が一人目覚めていては恐らく心配をかけ迷惑になるだろう。
スマホの目覚ましタイマーをかけ、轟はすぐに目を閉じて、夢を見ないことを選んだ。
◇◆◇
翌日早朝五時に目覚めて、二人でまた慌ただしく身支度を整え、アプリで配車予約していたタクシーで山麓駅に向かった。
再び在来線で神野方面行きの新幹線で午前中に到着し、先行していたキドウとオニマーたちと合流し、遠方出張の最後の支援に入らせてもらった。
神野の県外近郊に新築した災害住宅一戸一戸に家電や家具を運び入れ、建築後の清掃や被災した学校や企業への物資搬入などを手伝い、夕方に解散となった。
最後で疲れているだろうからとキドウたちに早めに帰されたが、今から誰もいない土曜の学生寮に戻るよりは数駅先の実家の方に泊まるのがいいかもしれない。
飯田は実家にこのまま帰宅するようで、在来線の駅に向けて二人で歩きだした。
「…今日も体力仕事だったなあ。すげなく終わってよかったな!新しい災害住宅も綺麗だったし、家のない人はこれで安心するだろう」
「ああ……一段落したかんじだな。ひとまず」
凝った肩周りや腕をぱきりと鳴らして伸びやストレッチをする飯田につられて、轟も首を左右に倒し回す。
凝り固まっている上半身の筋肉がようやくほぐれたようで一息ついた。
昨日は日中ずっとしゃがんで苗の植樹をしていたので腰も痛い。
「土曜だが、今日は寮には戻るのかい?」
「いや…どっかに寄って飯食いながらちょっと決める」
今日は土埃などはかぶっていないのですすけてはいないが、体力を要する仕事が続き、疲労度的には身体がよれている。
飯田は轟より筋力もあり持続力があるのか、今日は昨日ほど参ってはいなそうだ。
あまり目立つ飲食店で落ち着いて食べる気分でもないので、ファーストフードのテイクアウトにでもしようと考えた。
「…轟くん、うちに寄らないか?」
「え」
駅ナカにあるファーストフードのテナントで持ち帰るかと決めていた折に、唐突に飯田から思わぬ提案をされ瞠目する。
既に誰もいない実家に帰る算段に入っていたからだ。
「寮でも実家でも、いつも土日は一人なんだろう?さっき家に帰ると連絡したが、よかったら君も…」
A組のみんなにも週末だけ実家に帰る土日以外は一人学生寮に残っていることは詳しく話していなかったが、噂にでもなっていたのだろうか。
A組のメンバーも飯田もこの上なく世話焼きで優しいが、まだ現状ではあまり寄りかかりすぎたくはない。
「……いや、俺が行ったらまずいだろ飯田。うちは荼毘の関係者で顔も割れてる。迷惑んなるから…今は遠慮する」
毎回みんなからの好意を無碍にするのは忍びないので、学校に大勢でいる間はその親切を享受することにしているが、やはり親族は血の繋がる雄英生徒と轟家が絡むとなると二の足をいくつも踏ませることになるだろう。
飯田も咄嗟にはっとした表情を見せ、あまり深くは考えずに身近な友人として発していたのだと知れる。
「……あ…。そうか…。そうだったな。俺が考えなしだった。……君に我慢をさせてしまうからな。申し訳ない」
「わりぃな…。時間がもう少し経てば、行けるようになるかもしんねぇから」
飯田は自分が痛むような顔をする。
せっかく初めて高校でできた友人ですらろくに迎えさせられない立場になり、煩わしいなとは思う。
直截的に自分が原因ではなくても血縁の業を表向きかばってしまうのは、やはり家族だと認識し直しているからだ。
守るためなら自分が傷ついても、何も思わずにいられるようになった気が少しはする。
大きな遠隔地出張が晴れて終わったのに、飯田の気遣いを蹴ってがっかりさせたまま解散をさせるのが何となく嫌だなと思い、思いつきを口にする。
「…代わりに、うち来るか」
駅に辿り着く手前で話し込んでしまっているので、行き交う人が次々と背後を通り過ぎていく。言葉に詰まったらしい飯田の答えを待つ間、疲れからなのかその光景がスローモーションのように見えていた。
「………いいのか?ご家族に、許可は」
飯田自身は逆に人に誘われることをまったく想定していなかったようで、驚いたように瞬いていた。
「電話かけりゃ問題ねえよ」
「…そうか」
飯田の家も代々続くヒーロー一家だ。轟と同じように、あまり身軽に一般家庭の生徒とは交流していなかったのかもしれないと思った。二人ともおそらく普通の基準を知らない。
飯田は少し考え込んだあとにスマホをパンツのポケットから取り出し、コールをかけながら轟を見下ろし、にっと笑った。
「では、何か夕食を買って帰ろう。是非お邪魔させてもらうよ」
コールが通じた飯田に駅へ向かおうとジェスチャーだけで促され、再び二人で歩き出す。
「…母さん?すみません…今日は出張復興作業も最後だったので、友人の家にお邪魔して宿泊させてもらうことになりました」
初めて身内と話す飯田の会話を聞いたが、やはり轟の家と方針は違えど育ちがいいのだなとあらためて思った。親に対して謙譲するような語調を使うということは、実は轟の家よりも上意下達がはっきりしていて教育が厳しいのかもしれない。
身内の勧めで断られるかもしれないなと思った。
「体育祭で二位だったクラスメイトで……轟くんの家です」
「………っ、」
通話口の相手の声はくぐもって聞こえないが、飯田は一切誤魔化しもせず伝えた。
曖昧に緑谷あたりの名前を出して、フェイクの宿泊先を上げると思っていたのだ。
「彼はご両親も入院中で、ずっと一人で心配なんだ。……うん。わかったよ。明日の昼には帰ります。…じゃあ」
「………」
通話を切った飯田に、最寄りは何駅かと問われ振り向いたところへ、目を瞠ったままどうするのか再確認する。
「……大丈夫だったのか」
「ああ…!初めて友達の家に宿泊するから、少し母も戸惑っていただけさ。大丈夫だったよ」
ぷらぷらとスマホを振って闊達に笑うと、首根をさすりながら飯田の表情が少し面映ゆいものに変わる。
「……君の家は高名なエンデヴァーの家系だから、逆に失礼のないようにと言われてしまったよ」
「そうか…なら、来いよ」
「ああ!駅ナカで何か夕飯を買って帰ろう」
改札を通る時、何故か胸がすくような、浮き立つような浮遊感を感じた。うしろには飯田も続いてくる。
遠隔地への道行きが終わったことで普通の日常に戻るはずであるのに、まるで非日常が始まるような気分だった。
◇◆◇
実家に辿り着くとまだ薄明るい夕闇の中でも、門前と玄関に明かりが灯っていた。 旧家にももちろん警備システムは入っていて連絡先も知らされているが、防犯のため玄関と居間、道場は夕方になると毎日自動点灯するようにしてもらっている。
入院中で誰もいない轟家を周知されていても、アンチ荼毘の国民もマスコミも多いので、毎日警察にも巡回してもらっている。
「…大きいお宅だな。やはり日本家屋なんだな。イメージどおりだ」
「訓練用の道場が敷地を食ってるかんじだな…。こっちだ」
正門をくぐり砂利を踏みながら鍵を開けて玄関に入り、飯田を家に上げる。
「家に友達を上げんのは、緑谷と爆豪とインターンやってた時以来だな…」
平日五日間は轟も寮にいるので家全体が蒸し暑い。すぐに食卓の座敷に飯田を通しエアコンをつける。ついでに自室と客室のエアコン除湿もオンにしておいた。
「……そうなのか。うちも家に友人を呼んだことがなくてな…。もし今日それが叶っていたら、君が第一号の来客になっていた」
座卓に座った飯田と共に、さっそく駅で買い込んだファーストフードの袋を開けて中身のドリンクとバーガー、ポテトの包みを取り出す。
飯田はやはり身内の留守中無人の家に邪魔するよりは、轟に訪問してほしかったようだった。
「落ち着いたら必ず行く」
いつ叶うかはわからないが、飯田に約束を確約するように微笑む。飯田に対しては家ぐるみで叶えるものも返すものも多すぎるくらいだったが、簡単なものだけでも早く叶う環境になればいいと思う。
「…ああ。座敷でごはんというのもとても落ち着くな」
包みを開いて同時にそれぞれ選んだバーガーにかぶりつき、喉を潤した。
「……ふ」
「轟くん?」
「ずっと週末往復して、なんか飯田と俺、食ってばっかだな」
そういうことかと飯田も思い当たるところがあるらしく、からりと笑った。
「バーニン氏の言うとおり、プロヒーローになったらこんなかんじになるのだろうな」
「…多分な。休みなんてほとんど取れねえのかもしんねえ」
この三カ月間空腹でたくさん食べた記憶しかない。授業はぶつぎりになっていたのであまり頭に入ってこない。復興支援で激しく動いて消費したらエネルギーを入れる。それだけだった。
明日から学生としてまた一から巻き返していこうと思いながら、やはり腹ごしらえのほうに夢中になった。飯田が嗜む、ガソリン代わりのオレンジジュースのようなものかもしれないなと思った。
「………」
しばらく軽く明日の基礎学テストのことなどを話しながら、黙々と食事に集中する。ぼんやりと地上波のニュースを流し見ていると、こちらを伺っていたらしい飯田と不意に目が合った。
「飯田…?」
「ん?ああ!何でもないよ。少し足りないなと思っただけだ」
「…そうか。足りねえなら、近くにコンビニあるけど……行くか」
「そうしよう。このあと少しテスト勉強もあるしな!」
取り繕った飯田に乗った形で、近くのコンビニにドリンクと間食を調達しに行くことになった。轟のほうも、バーガー一つでは物足りなかったからだ。
――足りないというのは実は方便で、轟には飯田が取り繕った理由が何となくわかって、その理由にも便乗する真似をしてしまった。
腹が減っているのは本当だ。
他に減ってしまったのは、忙殺されていた数か月の時間――。
―――俺から多分、話すべきなんだろう。
玄関先で靴を履く飯田の厚い制服ごしの背中を見ながら、轟は気づかれないように細い嘆息を吐き出した。
轟の自室に移り、コンビニで買い込んだペットボトルの緑茶とオレンジジュース、スナック菓子などで喉を濡らしながら、明後日授業でテスト予定の基礎学ワークを一時間ほどかけて解き終わる。夜七時に差しかかる頃だった。
窓の外はまだ橙と桃の色に溶け焼け、濃い落ち影を障子窓ごしに畳に落としている。
風呂の自動焚きをセットし、客間に飯田用の客用布団を敷いて自室に戻ると、飯田は服を収納している和箪笥に背を預けて本を読んでいた。
「飯田。風呂沸いたら入れるぞ。布団も敷いといた」
「ああ!ありがとう、轟くん」
「…何読んでんだ」
和箪笥に同じように背を預けて座り込むと、飯田の手元を覗き込んだ。
小難しそうな文列を目で追っても、漫画しかほとんど読まない轟にはどんなジャンルなのかも憶測がつかない。
「哲学書のようなものだよ。ドイツの作家の」
「そんな難しいもん読んでんだな…飯田」
「難しいが、自分の好きなとらえ方で読めるから、誰でも一度は読んでみるといいと思うが」
「…多分俺は途中で投げ出しちまいそうだ。考えんのはシンプルなほうがいいし」
「ははっ。…轟くんはそうか。本は好きだから、いろいろ読んでみているよ。もちろん週刊誌の漫画を少し読むこともあるが…大体は活字だな」
飯田の足元にもう一冊置いてある新書本を手に取って、ぱらぱらとめくってみる。こっちは飯田の二年後の大学専攻にまつわるものなのか、法学系のもののようだ。やはり内容は法律関連のものであるという以外、頭に入ってこない。
こんなにも趣味が違う人間同士であるのに、友人になれるものなのだなと思った。
「…………」
――――何で飯田は、俺を好きだと言ってきた?
三ヶ月前のあの日―――。
神野から荼毘が冷炎を燃やす群訝までの、二人のエンジンと半冷半燃で移動するおよそ三十分間の最中。
荼毘の元へ送り出す直前に、飯田から好きだという告白を突然に受けた。
だから必ず生きて戻ってこいと。少しは片隅で考えてみてほしいと。
友人が待つ日常をないがしろにして逝くなと、最後の歯止めをかけた。
鋭い風になびく飯田の後ろ髪が話していたことを、今再び思い出した。
新書のページを緩慢にめくるが、何も視界には入ってきていない。はっきりと答えは求められていなかったから、減ってしまった忙殺の時間が何も考えさせずに済んでいた。飯田のほうも同じだろう。
やはり自分にはまだ、何も考えられないかもしれないと思った。
育ちのいい飯田にあつらえの、綺麗で賢い女はクラスにもたくさんいるのに。
何で難しいこともよく知らねえ、単純に力押しで動く自分なんかが―――。
「どうした、轟くん」
「……、いや……何でも」
―――うかつだった。上手く取り繕えたかはわからない。
今は飯田の顔が見れない。
返しがぎこちなかったなと思い至り、手慰みにペットボトルのお茶とグラスをテーブルから取り、半分ほどまで注ぐ。
からりとほとんど溶けかけた氷が涼し気に鳴り、おもむろに口をつける。大袈裟に呷ったわけではないのに、ごくりと喉が大きく動き、グラスを降ろした。
味のしない水を流し込んでいるようだった。温い冷たさをしか感じない。
黙っている飯田のほうを不意に見やると、昨日の朝新幹線の座席で轟が飯田の喉の動きを見ていたように、飯田がこちらを見据えていた。
「…………」
――気づかれたと思った。
飯田も神野からのことに思い当たっているのか、ぎこちない間が数十センチの二人の距離間に流れているのがわかる。
何かを言おうとは思うのに、何から話せばいいのかに迷っている。
飯田のことをどう思っているかなど、考えた、と思うほどまったく考えられる時間がなかった。
飯田は瞳の力が強い。怒っているかのような、眉頭に強さを感じる表情をしていた。普段饒舌で表情も豊かな男が黙っているので、その心がさっきの難儀な本のように読めない。轟は何気なく装ったつもりで目線を外すが、上手くはいかなかったと思う。
「………、」
顔の前に暗い影が差し込み、障子からのオレンジの夕闇がさえぎられ、ぼう、と発熱する人肌の湿度を感じる。
和箪笥に背を預けている轟に覆いかぶさってくるかのように、右隣からゆっくりと距離を詰められた。
状況が見えていない沈黙が怖くなり面を上げると、飯田の表情は今度は耐えるような色をし、眉が寄せられていた。気取られないようにこくりと唾を呑み、まっすぐに見据え返す。
何をしようとしているかは何となくわかった。
喉が干上がり、近づきすぎた距離ではどこを見ていいのかわからず、猛禽のように黄金に光る両目を交互に見つめる。どくどくと覚えのない胸を叩く重さが増してきて鈍痛のように内臓をうごめき、左がやけに熱くなってきて同じ方向へ顎を逸らした途端、ぐいっと太い指に引き掴まれ仰のいた。
「っ!…ぁっ」
上から轟を覗き込んでくる飯田の顔に黒い影が差し、轟の呻きにひるんだように息を呑み、掴まれていた顎を離される。
「………っ」
目の前で揺れた黄金の視線が引いていき、強引に迫ってきたくせにぎりぎりになって気遣いか度胸が途切れたのか――。轟は顎から離された指を思わず右手で引き止めた。
「………は…、」
びくりとした飯田の口からこらえていた呼気が漏れ、轟もまた息を止めていたことに気づく。
――決着をつけたい。
止めていなければ、自分でもよくわからない衝動に押し流されてしまいそうだった。
「…は……、は……っ…」
じわりと熱していく左のコントロールに煩わされ、深く細く右から呼吸を吐くことで冷まし個性を使っているのだと飯田も気がつく。戸惑う厚い爪と指で左の瞼と髪を撫でられると、ぞくぞくと触れられたところに寒気のような痺れが走った。
「はっ……」
悪寒とは違うそれが下肢に直結する快楽だと理解すると、次に踏み込む飯田の一手に期待じみたものを抱いてしまっていた。
下腹に覚えのある刺激が疼く。飯田の指一つで勃った。顔全体が熱くなって幕が張ったようだ。
引けば飯田が怯む。
『あの一年女子と付き合う!?』
『今の内に少しでも楽しんでおいたほういいよ。ショートくんは特に』
楽しむとかそういうのじゃねぇけど―――。
―――………してぇ。飯田と。
それがまだ知らぬセックスに対する興味なのか好意の変遷なのか飯田がどう動くのか気になるかなのか―――。
考えるより先に反応した身体に触ってみてほしい。
観念して轟は薄目を伏せ顎を上げた。
左瞼から手が離れ、衣擦れの音が生々しく聞こえ正面から顔面直近に夏の人間の湿度と飯田の日向に似た体臭が襲うと、口許を何か温いものに覆われた。
「……っ…?」
数瞬で離れてしまったそれを確かめるためにうっすら目を開けると、轟の左の熱に浮かされたような赤く血が巡る飯田の真剣な顔が間近で見下ろしていた。
炎をコントロールする轟の呼気と飯田の抑えた吐息が入り混じるほど唇が近い。
やっぱりさっき触れたのは飯田の唇だとわかった。
男の飯田と――A組クラスメイトの飯田とキスした。
破壊力のある実感が肉体に浸透すると余計に、轟のどこともわからないものがふつふつと昂ってくる。
誰もいない実家で、親父のいない家で。まだ父親に対してタブーを犯し反発してみたいのかとかぐるぐると疑念が回る。
とにかく目の前のでかい手で触られてぇ、と欲望がじくじくと腹から突き上げてくる。
左肩にそっと置かれた飯田の手を掴み、上目に骨組みのしっかりした男の火照る黄金の双眸をじっと見据える。
「…………お前としてみてぇ。…わかんねぇけど…」
飯田は息を呑み溜めていた呼吸をゆっくり吐き出すと、了承を得られたことにようやく納得できたような、決意に似た硬い顔色で轟を縛った。
「………、最後までは、しないぞ」
「ん…」
切り詰めた飯田の吐息がゆっくり再び近づいてきて唇の薄い粘膜をぞろりとなぞると、今度は轟から噛みつくように口蓋をぴたりと合わせていった。
かちりと前歯が粘膜とぶつかる痛みも問わずに、すぐに帳尻を合わせるように顔を傾け、柔かい唇同士を試しに擦り合わせる。
「っん…」
姉さんに付き合った洋画で目にしたことのある、セックスにまつわる記憶をたぐり、薄目で飯田を探りながらちゅっ、ちゅ、と啄むようにしていると、同じように飯田がぎらついた黄金で鋭く轟を強引に奪いにくる。
「!…っは……っ」
「ん…っ」
次第にまた激しく合わせた口を縫い、口蓋を唇で揉んで粘膜を擦りつけ合うたびに、内側の濡れた部分から唾液が滲んで水音が立つ。
「はっ……!んんっ、」
息も切れ切れになりながら、飯田がなめらかな轟の歯列を厚みのある舌で叩き、入れたいと主張する。薄く開くと不器用に探る舌先同士が突き合い、下着が一瞬で少し濡れるのがわかった。
「!!ぁっ……!い、…いだ…っ」
「…轟くん…っ」
いつの間にか夏の制服シャツを皺が寄るほど掻き抱かれていた身体を、飯田の厚い身体に押しつけ、知らず昂って濡れた下肢を、その硬い腹に擦りつけていた。
「はー…、はぁ、ん…ん…っ」
能動的にどちらも主権を取りたがり、飯田の腹を無意識に弄んでいた腰をぐっと掴まれ、和箪笥に背筋を押さえつけられる。
「!…あ……っ」
箪笥に縫いつけられた肩が動かず、浮ついた頭で仰いて飯田を見る右頬に燃える熱さの手の平が這う。冷まそうと無意識に冷たい息を吐く。
「っ…俺も君に触りたいから」
飯田は腹を空かせてる。咄嗟にそう思った。
強引に押さえつけられた両肩をゆっくり肘まで撫で下ろされ、ちら、とこちらを伺うようにしてから腕、手首へ筋肉の形を辿るような愛撫が落ちていく。
「…っ、ん……」
愛撫と言うよりも目の前にピン留めされる獲物のような拘束に近い触り方だった。じっくり検められていると感じながら、轟の制服ごしの身体を順繰りに睨めつける飯田の汗の浮いた額を睨む。自由になる下肢だけをじれったく蠢かすと、飯田が轟の下肢の状態に気がつき、触れていいのか揺れる目線を投げてきた。
「……さっき少し達っちまった」
もう何も隠す気はなくてふっと自嘲の笑みを溢すと、飯田は驚いて目を点にし、つられてようやく緊迫の糸が途切れたのか柔らかく微笑んだ。拘束されていた両腕の力が抜ける。
「すまない…。君に赦されたから……がっついてしまった」
飯田の口がそのまま何か話そうとわななき、悠長な答えを求められそうな気がしたので轟から今度はその広い両肩を強く後ろに押した。
「…っ…!轟くん!?」
みっしりとしている飯田の肉体を押し倒すと、その股座にすかさず乗り上げ体重を落とし、畳に両手をついて囲う。
「……あとから言う」
「…っ!」
飯田の左耳元で低く言い含めると、そのまま反論を封じるようにキスをした。少しは位置も上手く測れるようになったがまだ慣れないから薄目は開けたままだ。跨った裏腿が熱く、飯田の分厚い腰回りが轟の股下を押し開くように抵抗するので、飯田のベルトをがちゃがちゃと外しながら口腔を舌でぎこちなく掻き回す。
「っはぁっ…はぁ…っ、ッん!」
負けじと頭蓋を右手で押さえられ、飯田の荒い呼吸ごと持ち上げた首が食い込むように唇を啄み貪ってくる。同時にのしかかる轟の鳩尾から下腹を空いた左手で辿り、飯田もベルトのバックルを外そうとしてくるが、利き手じゃないせいか上手くいかないのを手伝ってやる。
「ん…ふ、ぁ」
唇を離すと唾液が糸を引き飯田の顎に垂れるのが見えたが、構わずスラックスのジッパーを外し少し先が濡れている下着を一息に下ろすと、途端に勃起したもう大人の太い性器が飛び出て轟の手の甲を打つ。他人のものを間近でじっくり見るのは初めてで、その肉感と赤さが生々しい。
「っ轟、くん…」
飯田が赤く染まる目線を気まずげに外し、轟の右手を抑えるよう掴んできたので、その手を逃れて逆手に掴み、自分のスラックスの下肢に誘導した。
「…いいよ、俺も」
「……ん」
おあいこだという意志を轟の笑みで察した飯田の表情が、ふっと緩む。
ベルトは外すのを手伝っていたので、躊躇いがちにジッパーを下げられる。その間にぎゅっと飯田の屹立を握り、自分がするように上下に擦りたててみると、びくりと跳ねてすぐに体液がつう、と漏れ出て轟の手を汚した。
「ぅっ、はぁっ、とど、ろきくっ」
飯田の喉がごくりと上下にうねり、轟の手によって喘ぐのを認めながら、轟も唇を舐めながら餓えてくる。右手を伝う体液が肌を焼くように熱い。飯田の身体から今出てきたばかりだという証左に、これもセックスなんだなと実感すると同時に下着に潜り込む何かにぞろりと下生えを撫でられた。
「ぁ…っ」
「…柔らかいな…」
何に対する感想かはわからないが、下生えの奥に押し込まれた性器を絡めとるように飯田のごつい手に握られ息を呑む。
「あっ…!飯、田…っ」
くちくちと下着の中で亀頭を擦られ、体液が漏れ出てくる粘膜から波打つように快楽がせり上がり、前かがみになりながら腰に充満する刺すような甘さに耐える。
「はっ、っぁ、ん、は…っ」
飯田のそそりたつ屹立を握りながら何も仕返せなくなり、その硬さに縋るようにようやく上下に手を動かす。他人を気持ちよくさせたことがないから、自分と飯田どちらへの奉仕を優先していいのかわからなくなって射精にも集中できない。飯田はどうかと思わず頼るよう見下ろすと、刺激している下肢ではなく轟の顔をじっと見られていてどきりとした。
「…っ」
飯田は最初から轟だけを達かせようとしていることに気づく。動揺をもらったところに飯田が腹筋で身を起こしてきて、轟の下着に手を突っ込んだまま小刻みに追いたてられ、股間ごとその手を抑える。
「あっ、っぁッ…飯田っ、待て…っ」
「轟くん…っ」
布の中でぐちゃぐちゃと激しい水音だけが大袈裟に鳴り、ペースを乱され混乱してくる。達くよりも先に飯田に崩される主権を取り戻さないとまずいという危機感に駆り立てられ、制止を求めて飯田の左頬を押すと汗で曇る眼鏡がずれて畳に弾かれた。
「…すまない…っ」
「え…、っぁ…!!」
抵抗して押しのけたのは轟のほうであるのに飯田から謝られ、すかさず戸惑った両腕を取られて視界が反転する。和箪笥に後頭部を押さえつけるよう押し倒され飯田を跨いでいた足が解けると、前側からぎゅうと強く掻き抱かれる。
重い身体にのしかかられ、伸ばした轟の右足が弾かれた飯田の眼鏡を再び蹴るのがわかった。
「…汚れるから下ろすよ」
「……っ、も…ぐちゃぐちゃだろ…」
「ん…、そうだな。だが、制服も汚れるから」
ふっと飯田もそのとおりだなと笑みを零すが、すぐにそれは真顔に変わり、轟の左の頬をじとりと熱のこもった手の平で撫でられる。
「………ぁ…」
身体を離した飯田の肉厚な腰に押し広げられた分、轟の両足は左右に大きく開いている。ぐっしょりと濡れた下着を躊躇うようにゆっくり引き下ろされる。下着と同じ状態の震える性器と下生えが飯田の見下ろす目の前にさらされ、羞恥で目線を思わず外した。
「…君はやはり、すべてが格好良くて…綺麗なんだな」
「……どういう意味だよ…」
自分ばかり見られたものを口に出して揶揄されるのは、また主権を譲ることになる。むっとしてすがめた目で飯田を見上げ、轟の腹に押し当たる重い性器をぎゅっと握ると腹いせにゆるゆるとしごきだす。男の手でも手に余る大きさで、人を揶揄するまでもなく酷く濡れている。
「俺を見てこうなってるくせに…余裕すぎんだろ」
「ぅ…!っんっ轟くん…っ」
「ん…っ」
轟の両脇に手をついて腕の利かない飯田の後頭部をぐいっと引き掴み、快楽に呻く唇を塞ぎにいく。自分の口腔に飯田を強くホールドしたまま、唇の粘膜をちゅっ、ちゅっと吸い上げながら屹立をぐちゅぐちゅと強い力でしごく。
「ん…っ、ん、ふ…ぅ」
体液の溢れるところは余さず擦りつけ、肉をこね塞ぎ合いながら、飯田も追いたてられつつも轟を再び掻き抱いて、ぎこちなく舌をねじ入れてくる。口端からだらだらと温い唾液が二人分顎を濡らす。
轟の手に好きに弄ばれる飯田のねばつく亀頭に、自分の先端を擦りつけるように下から腰を突き上げる。
「ぁっ…あ…!轟、くっ!」
背中を掻き抱いていた飯田の腕が、轟の跳ねる両腰を強く引き掴んでぐっと骨盤を持ち上げられる。
「…っん、」
轟に急所をしごかれ、指の輪を亀頭がくぐる摩擦に合わせるように飯田の腰も轟の開かされた大腿をえぐり突き始めた。
「っ……轟くん…っ……はあ…っ」
「んッ?!ぁっ…!ふっ…!」
飯田の遠慮のない突き上げに屹立をしごく自分の手が邪魔になり、ぱっと離して咄嗟に飯田と自身の濡れそぼって赤くなった先端だけを手の中に包む。飯田と轟両方のタイミングを合わせた突き上げにより、互いの裸の砲身がずりずりと擦れ合う。
「ぁ…っ、はあっ、は…っ!す、げ、」
気持ちいい。他人に翻弄されるほどの強さで一時的に身体を好きにされるのも、こんなにも予想がつかなく、視覚で得るよりも刺激が激しいものなのだと思った。
「んっ、っとどろきくっ、はっ、はあ…ッ!」
包んだ手の中の二つの亀頭をこね、轟の股間を前後に叩く飯田に追いたてられるように上下に擦ると、首根にぞわぞわと脳の欲求にぴたりとはまる愉楽が駆けあがってくる。ただこの渦の先に先に飛び込みたいと思う。
「はぁっはっ、ぁ…っ!はっ……!出、る…っ」
「っん。僕も……ッ、ふっ、ふ…!」
軽くいらえを返す飯田にも腰を振りたてる中で余裕が見られない。キスをするような余裕はまったくなくなり、ただ互いに渦に巻き込まれ溺れようと掻き抱きあって、和箪笥がぐらぐらと揺れるほどぶつかる後頭部と汗ばんだ髪を擦りつけて仰のくと、白く下肢と脳天から熱く弾ける。
「ぁ……っ……!!」
轟がかすれた喘ぎを上げると同時に飯田の汗ばんだ頭が右肩に埋まり、両腰を強く掴まれていた手が離れた。ぎゅうっと先程のように拘束する形で両腕を引き掴まれる。
「ぅ……はあ…っ、」
数瞬遅れて轟の手の中にどくどくと白濁が吐き出され、自分の出したものと混じった体液が手の平からどろりと零れて臍周りに入り込む。
「ぁ………」
生あたたかい。これもまた今二人の肉体から漏れ出てきたばかりの証左で、しっかりと飯田とセックスをしてしまったのだとわかる。
三カ月互いに何も言わず考えず、関係のゆらぎを誤魔化してきたクラスメイトではなくなった。
「…は、……は…っ…」
射精後でぼんやりけぶる視界とけだるい倦怠感に瞼が重くなる。
部屋の中がすっかり暗いのに電気をつける余力がない。身体全体を使って力の強い飯田と睦んだので、荒い呼吸がなかなかおさまらなかった。
耳元で同じく呼吸を荒げている飯田の息がまだ熱い。おもむろに顔を上げた飯田が、まだ身体の上にのしかかったままじっと見下ろしてくる。物憂げで火照った飯田の顔をじっくり見上げると、少し目許に出張作業の疲れが滲んでいる。口許に視線が移ったことに気がついて、ああ、またキスをされるんだなと思い当たり、静かに待つ。もう抵抗する気力もなかったし、自分の答えを受け入れたのだ。
案の定ゆっくり降りてきた飯田の顔が暗くなってしまった座敷の情景を覆い、唇に触れるだけの遠慮がちなキスが落ちる。分厚く大きい手が、熱の冷めた左頬の火傷と瞼を撫でおろす。もう炎が噴き出す余地はないし右で冷やすまでもない。
まだ遠慮するんだな、とは言わずに内心で留めながら、とくとくと普通の鼓動に立ち戻っていく冷静な頭でようやく飯田の告白を考えていく。
男同士である時点で、さっきの様相は到底高校生が体験する性体験を既に逸脱しているとは思ったが、後悔の念は起きなかった。
一度吐き出しあって達して、徐々に肌も冷えてきたところで、轟は自室の文机にあるティッシュ箱を取りに緩慢に膝立ちで移動する。自分の必要分を取って飯田に箱を手渡す。
「わりぃ。今部屋にティッシュしかねえけど」
「問題ないよ。このあとすぐ風呂に入れるだろう」
欲情のアベレージが下がると、あと始末をする時の現実との落差に、さらに頭が冷静になってくる。この瞬間は親しい人間とそういうことをした時でも同じなんだなと思った。飯田のほうも汚れた下肢を黙々と清め、身支度を整えていた。
「………一緒に入ればいいのか?」
「そっ、ちっ、!違う、それはしないが…!!」
――ああ、いつもの飯田だと、ふっと笑いがこみあげてくる。
「冗談だ」
「…まったく……あんなことのあとでも、君はいつもどおりだな……」
うつむき気味に、少し傷ついたような飯田の表情が気になった。
飯田のほうは俺以上に余計に気を張って、何でもないふりで三カ月そばにいたんだろう。
そう思うと、被災支援中余裕がなかったとはいえ、忘れられているかもしれないとも考えていただろうし、気の毒なことをしていたんだと思う。
「…そうでもねえよ」
タイは外していたので、ベルトをスラックスから引き抜き、飯田の次に風呂に入る前に一度下着ごと着替えようと立ち上がる。
「………そう、だよな…」
和箪笥から私服を取り出していて飯田のおもざしは見えなかったが、多分勘違いをしたままなんだろう。声に覇気がなくまだ真実を知らぬ傷が見え隠れした。
飯田は荷物の中に着替えがあるだろうと声はかけなかった。
「風呂入る準備してくる。タオルとか」
「あ…、ああ。ありがとう」
風呂場で汚れてしまった下着をすすぎ洗濯機に放り、部屋着に着替えて戻ると、飯田はワークを広げていたテーブルのそばでぼうっと虚空を見ていた。
「風呂は沸いてたから、もう入れるぞ。これ使ったら、洗濯機に入れとけばいいから。風呂に置いてあるもんは適当に使ってくれ」
自室の電気をつけてテーブル前に座りしな、バスタオルとフェイスタオルを飯田に手渡した。
「ああ、すまない。いろいろ好きに使わせていただくよ」
部屋が灯って気分も切り替えたらしい飯田は、普段の明るい言動に戻っていた。風呂場へ行くために立ち上がる飯田を手で軽く制し、座るように呼び止める。
「…どうする」
ぼそりと主語を使わずに思いついたまま、飯田に対して切り出す。
「…え?」
「付き合うのか」
「あ……」
思いもかけぬ問いにくっきりとした鋭利な双眸を丸くする飯田を、轟はじっと見据えた。
『――なりたい自分に、なっていいんだよ』
『だから君も――なってこい……!』
大戦以降三ヶ月間何も言われずとも、轟も静かな好意を気遣いで仕向けられているのは意識していたし、実際に触られてみて信頼や主導権の問題はあれど、嫌悪は覚えなかった。
轟が自ら触ってみてほしいと無意識的に動き受け入れ、飯田にも触れてみたいと迫り途中で止めなかった時点で、自分の中では答えは出たようなものだ。
――むしろ、あんな風に俺や自分たち家族のために、不得手な熱の戦闘地……俺のサポートをわざわざ選び、付き添い、身体を張って個性の限界上限を超えてまで俺のために走れるやつが他にいるのか――。
それに加え、饒舌に他人の世話や統制を大声で叫び介入する男が、自分の前でだけは余計なことを言わずただ黙って殊勝に気遣ってくるのだ。
クラスメイトで……友達だから、なりたいヒーローのためというだけではないものがあればこその行動だったのではないか――。
そんな人間はこれから先もそうそうは現れないだろう。
飯田の大事な両脚を、さっきも自分の手で、身体で、労わってやればよかったと思い返した。
「付き…あえるのか?」
あまりにまっすぐ轟に向き合われたことで、嬉しいよりも意外性と驚きが先に立つのか、どこかまだ疑いのある声音で、黄金の双眸が揺れ、瞠目している。
じゃあ何でさっきあんなすげぇことしたんだよ、と轟は突っ込みたくなったが、家に友達を呼んだこともない者同士、経験のないことで動揺していたのは同じだからからかうことはできなかった。
「…元々はお前から言ってきたんだろ。俺に聞くなよ」
「う……っ……それは、そうなのだが……」
轟からも触れてくれと明確に意思表示をしていたので、芦戸の言う恋バナの両想いというやつでいいんだろう、と認識はしているが、付き合うのかと口にした半面そのあとどうするかについてはまだ混乱はしている。
「みんな、今はそうしてんだろ。…大戦も終わって、一年も入って」
昨日朝に教室で聞いた、砂藤や瀬呂が新下級生と付き合っている話、バーニンからの学生時代を無駄にするなという訓示を経て、多くの者がもう割り切って普通に戻り浮かれることをヒーローと同軸で選んでいるのなら、いいんだろうと思えた。
その経過が今日の日の前にあったのも、轟自身家のことを考えないことは一夜もないが、あの時飯田に告白され、考える前に自然と動いた心を開くことの必然だったのではないかとさえ思う。
「…いいんじゃねぇか。みんながそうで……俺らが駄目ってことはねぇだろ」
「………。轟くん、」
飯田自身は轟と同じその必然のような偶然を知らないから、お互いに気持ちがあることがいまだに信じられないといった調子だ。
生きて戻って考えてみてほしい、というのは、緑谷の帰還をA組ぐるみで必死に揺り戻し、A組のみんなを唯一の頼りにしていた俺に対する方便に近いものだったんだろう……と今なら思う。
轟自身も、こんなにも積極的に新しい繋がりを提案する未来があるとは思わなかった。
飯田からの返答を、今度は轟がじっと待っていた。
「……ああ」
いらえだけを返した少しの間のあとに、飯田はテーブルに預けた轟の腕をぐっと引き、強く力を込めて握った。
「付き合おう」
轟がその言葉に視線を上げ目が合うと、飯田は苦笑のような、怒っているような目に力のある黄金で小さく微笑んだ。
先程の身体での行為も通して、それが普通の飯田ではない真剣な好意の現しかたなんだなとわかった。
掴まれた左腕がさらにまたぐっと引かれるままに、座卓に上半身を乗り上げる。同じように乗り上げた飯田の鼻先と前髪が額に触れた。間近の肌の湿度がぼう、と熱を掃いて呼気がじれったく交わり、丁寧で長い唇を合わせるだけのキスを一つ受け取った。
風呂を交互に使い、既に普段寝る時間は過ぎていたが、あまり眠気が訪れなかった。それは飯田も同じで、仕方ないからとコンビニで買った残りの間食を居間で食べ、何とはなしに二人で過ごした。
神野から群訝まで走った時のことを笑い話を交えて話しながら、また三十分だけテストの予習をするが眠気は訪れなかった。
きりがないなと笑い、同じ客間に轟の布団も移動し、三カ月山荘で眠ったように布団を二つ並べて眠りについた。
「……慌てる必要はないよ。学生の内は、プロになったあとよりも時間がたくさんある」
「…ん。そうだな…」
あのあとは特に何も性的な触れ合いはしなかった。
神野群訝への出張支援が終わったことで安堵していた都合上、やはり疲れは確実にたまっていたからだ。キスだけは雰囲気次第で、いろいろな場所で何度かした。
少し浮ついてしまっているとは自覚していたが、昂る心を共有できる相手がそばにいたら、止まれないものだと思った。
「……飯田」
「ん…?何だい轟くん」
「…また家に来るか」
飯田の布団のほうへ横向きに寝そべり、立てた肘腕でこめかみを支える姿勢で、うっすらと唇を上げて見せる。飯田は轟の含み笑いの意味を違わずとらえられたようで、眼鏡をかけていない精悍な顔をかっと染めた。
「………週末、またスケジュールが合った時に……必ず行くよ」
飯田は眼鏡をかけていない時でも、目に見えないブリッジを上げる癖があるのだなと思った。轟のあからさまな誘いに狼狽している姿を引き出すのが、既にもう轟自身の愉しみになりつつあった。
「…ああ。楽しみにしてる」
夢を見る暇もなく、二人でこそできる話を暗闇の中で楽しんだ。
付き合うという新しい形に変わってはいても、以前のようにクラスメイト同士の何でもない笑みにも戻れるのだなと知った。
第二章 週末懇 へつづく